はじまりはじまり
とあるシネマの冒頭
彼女は予感する。巨大な男の手がその華奢な鼻を握り潰してしまうほどの肉欲の濃い香を。トイレに行きたい。膀胱がうわずっている。彼女は欲する。谷間を見せた、エキゾチックな柄物のワンピースをなびかせて、彼女は大股でがしゃがしゃと歩く。泣く母を何度も殴りつけてきた夜、まだなんとなく疼く骨の痛みを掻き消すように腕を大きく振りながら、彼女は身を滅ぼす量のアルコールに塗れていた。……覆いかぶさる眩暈。彼女は今すぐにでも吐きたい。胃には馬鹿な飲み会でしこたま口に入れた粗雑な食い物とその後味が渦巻いている。だから、飲み屋を独りで抜けてきて、近くの寂れたスーパーに、入場した。地下にあるトイレ目指して入場した。
小さな電灯がひとつあるばかりの暗くて薄汚れた階段の途中で、女子トイレの前にそびえ立つ「掃除中」の黄色い看板を見て彼女は本当に錯乱した。放尿したいのと吐きたいのとで軽くあばれた。看板が彼女の脚に蹴飛ばされ後ろへ転がっていった。夏の終わりの蒸し暑さが身体にまとわりついたせいで理性が追い付かなくなって、看板を蹴飛ばしただけでは足りなくて、百七〇を超えた馬鹿でかい身体の彼女は天井に向かって大声で罵声を飛ばした。その光景は、十分に場の空気を凍りつかせた。
後ろから怪訝な表情で中年の女掃除員がモップを構えて彼女を見据えていた。視線に気づいたマリエは女掃除員に向かって微笑を浮かべた。そしてどうぞ、というように女子トイレへ向かって大袈裟に手を差し伸べた。危害を加えてきたら防衛しようとしていたのか、女掃除員はモップを構え直して、これ以上関わりたくないといった様子で、階段の下へ降りていった。その一連の流れがあって、彼女は正気を取り戻して、真面目な顔をして、ようやく舌打ちをし、尖った真っ赤なヒールの先で染みだらけの壁を蹴った。鈍い痛みが爪先から全身へ広がる。今度は思いきりその痛みを楽しむ。痛がる自分の姿に酔う。
彼女は恐ろしく糞尿の臭いがする男性用トイレにお構いなく入って、手洗い場に胃の中の物を全てぶちまけた。強く胃を押さえて。すると瞬間、手洗い場のすぐ隣の個室から唾液音が飛び込んできた。
少し巻いた長い黒髪の縁にも口周りにも薄黄緑色の吐瀉物をべっとりつけて、彼女は貧弱な形の耳をすます。卑しい唾液音は相変わらず響いてくる……唾液音のする個室の隣のトイレは空いている。彼女はずかずかとその個室に入り、放尿した。その間、野次馬根性が彼女の内部で炸裂して、自嘲気味に笑っていた。彼女は雑菌だらけの床に繊細なビーズで編まれたバッグを投げ、しかしスマホは持って、おそるおそる当事者らに気づかれないようにトイレの便器に飛び乗った。そうすると本当に見えたのだった。彼女はカメラのビデオで録画を始めた。
黄色い野球帽を被った、獣のような体格をした赤黒い男が小さな女の頭を押さえて、呻く。噎せかえるほど鼻を刺す体臭を放ちながら、男は額に脂汗を浮かべ、便器の上でどかっと股を広げ、だらしなく快楽に身をゆだねていた。五歳児のような三つ編みを幼児めいた甘い桃色のリボンで下げた女は上からしっかりとマリエのカメラ越しに見張られている。血管の浮いた骨張った右手で、男の性器を掴み、そして涎を顎まで垂らしながらくわえる。今にも切れそうな電球に映し出される女の青白い喉の側面にマリエの視線は注がれる。自分だけの余興を見ている、録画している、という特別なシチュエーションに、彼女はかつてない程興奮していた。眼だけを壁の上に出したマリエの口の中に柔らかな笑いが沸騰してくる。全く、彼女には「自分だけのもの」以上に好きなものはなかった! 何もない田舎に突然やってきた竜巻の中心にいるかのように彼女は興奮し、どんな声も出ないように左手で口を押えた。
男は、自分では立ち上がれない生まれたての小鹿のような女の口から名残惜しそうに性器を引き抜いて、女の両脇を抱えて立ち上がらせ、自身も立ち上がり、女の灰色のスカートのファスナーを破りさる勢いで下ろした。その衝撃でぐらついた女の頬をぶち、言葉にならないしゃがれた声で怒鳴りつけた。それでも男は、すぐに偽りの愛しさで女の耳の縁や頬の産毛をさすり、下卑た笑みを浮かべて女をあやした。そしてパンツを下ろし、性器に指やらペニスやらを挿入しようと襞を横に押し広げたとき、女は歯を食いしばり、喉の奥から絶叫した。
男と女の間に緊迫した濃密な時間が数秒間流れた。蛍光灯にまとわりついていた蠅の羽音と、四六時中流れているスーパーのテーマソングだけが微かに聞こえてきた……最も、マリエには余興に過ぎないので、その緊迫した時間にもびくともしなかった。男は元からないくせに威厳を保つためか少し遅れて、お前、静かにしろ、と怒声を放った。怒声を発したことでさらに苛ついてきたのか、ぎっしりと脂肪のついた右手で女の頭を豪快に打つ。脳味噌の詰まっていない女の軽い頭はトイレの固い扉に猛烈な勢いでぶつかり、衝撃で女は股を男の方に広げた状態で、床に崩れ落ちた。男がようやく勃起した。赤黒い血管が走る、えらく小さい性器を放り出したま、女の性器に指を突き入れようとすると、女の股からどろりとした濁血が垂れ落ちた。女はなんとここまでしておきながら生理だったのだ。
マリエはふっ、と笑ってしまった。それからけたたましく笑った。思いきり背を伸ばして彼らを上から指さして盛大に笑った。そして、阿呆のように口を開け、純朴な笑みを浮かべながら、スマホと手でせめてものささやかな拍手を送った。男と女はこの顔面ゲロ塗れの、派手な化粧を施した、割とどこにでもいそうな美人の、大きな目にしっかりと一部始終を目撃されていた。
男はマリエの持ったスマホに気づき、激昂する。一方女は転がりながら、最早口に性器なんかないのに、まるで何かの修行みたいに頭だけ上下運動を繰り返していた。マリエはその女の哀れさに、また指さして笑ってしまって、そこは戦場のようにうるさい。男は壁一枚隔てたマリエのもとに行くのが面倒なのか、怒りを女にぶつける。乱雑に女の身体を引き上げ、両手を思いきり振り上げ、女の頭をトイレの便器の中に叩き落した。そして男は女の腹を横から蹴って、去った。女は再び床に転がってぐえぐえとえずいた。
祭りが終わった。マリエはむしゃくしゃした。
「軽蔑するわ、あんた。誰とでもヤってんでしょ」
マリエはとりあえず女に声をかけ、便器から降りて鍵を乱暴にこじ開け、ゲロの溜まった手洗い場にタールの詰まった唾を吐きかける。帰ろうと思っていた矢先、例の個室から聞いたことのあるメロディが、彼女の耳に飛び込んできた。涎を垂らして、あの汚い男とお似合いな、女のスマホが鳴っていた。そのメロディはマリエの幼少期の虐待と深く結びついていた。彼女に暴行をふるっていた父がよく聞いていたものだ。女のスマホの音が止んで、少しして、ヒステリックな女の声ががなり響いた。
「エリ、早く帰りなさい!! 何時だと思ってるの!? 三十にもなってだらしがない! 今すぐ! ふしだらな女!」
マリエは過去の記憶を思い返し、ずかずかあの個室まで歩いていった。
「電話切れ!」
指が震えて鳥肌が立っていた。
女は電話を切らなかった。女の母親と思われる女性の声がトイレに響き渡った。
マリエは掴みかかった。
「止めて……」
女は懇願した。
マリエは女の髪を引きちぎり、もうわけがわからなくなりながら頭を殴り首を絞めると女も弱い手でマリエの首を絞めてきた、寝た男から買ってもらった六万もする服を裂こうとしてきた、我を忘れマリエは女の顔を思いっきりはたいた。女の頭が壁にぶち当たっている間に剥げた林檎のストラップを掴んで、便器の中へ放り込んだ瞬間、きいきいとした声が止んだ。
血眼の目を開いて、女は肩で息をした。
瞬間、糸が切れたように女は泣き出した。わあわあ泣いて、素朴な涙が女の表情皺を満たしていく……
天井から水が大量に降り注いだ。身体を壊すかのような勢いで分泌されている女の涙も全て、うだるような夏の汗も、あの惨めな男の体臭も、指を膣に入れられたせいで繁殖した雑菌も、洗い流されていった。
さっきの女清掃員が血相を変え走り寄ってきた。そして二人に火災報知器のスプリンクラーが誤作動したのだと言った。マリエは天井を見上げた。上下左右に震え、煌きながら七色に色味を変えて落ちてくる大小の光の粒。一瞬時間が止まったかのようにマリエには感じられた。女がトイレの床で這いまわった後に残った、濃いジェル状の血は薄められ、中央にある排水溝へと緩やかに赤みを残しながら流されていった。産毛のない細々とした白い二本の脚と陰毛のない性器を見て、マリエはこの女は危険だと感じた。関わりたくない人種だった。出会ったこともない人種だった。女掃除員は、腕を抱きかかえ震えている枯れた木片のような下半身を剥き出しにした女と、つい先ほど軽蔑したマリエを一瞥し、数秒間自分もこの状況を理解しようと水を浴びながら静止した。ただ、皆目見当がつかなかった。女清掃員は諦めて、二人に使い古された雑巾をあてがった。
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多宇加世 第一詩集『さびていしょうるの喃語』
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